第一話
世の中を変えるには、
一人ひとりが心に手をつけなければならない
人々が貧困にあえいでいた時代に 日本を救う道を
人の心に求めた
第一次世界大戦(大正3年~7年)が生んだ好景気と工業化が進む中で、 新しい大衆文化(大正ロマン)を享受した日本。 一方で米騒動や労働争議に揺れる社会を、関東大震災(大正12年)が直撃する。
状況は一変し、特需景気は底をつき、人々は貧困にあえぎ、生きる力をなくしていく。
この頃、日本の将来に対して危機意識をもって政治活動や社会改革に進んだ人は多い。
しかし、霊友会の創立者・久保角太郎は、日本を救う道を人の心に求めた。
人々が真に救われる道とは?
並々ならぬ修行の末、「久保は一部経(経典・法華三部経)のみを指針に生きていく―」
という心境に達した。そして、一部経が説く先祖供養に着目した。
“親や先祖はどういう思いでいるのか。その思いに自らの手で応える。その行いが先祖供養ではないか。
一人ひとりが生命の源を感じ、自分たちの心構えや態度をあらためてこそ、初めて社会は変わっていく”。
初代会長・小谷喜美
久保角太郎とともに霊友会の礎を築き、のちに霊友会初代会長となる。の心構えや態度をあらためてこそ、初めて社会は変わっていく” 。
先祖の供養はお坊さんに任せるしかなかった
しかし明治に入ってから教育令が発布され、全国各地に小学校ができ、誰もが文字を読めるようになった。
ただ、お経は漢文の音読み(真読)のため、先祖の供養はお坊さんに任せるしかなかった。
そんな状況の中で、久保角太郎は子孫が自ら行う「両家の先祖供養」を打ち出した。
昭和3年7月18日、青経巻(一部経=法華三部経=の抜粋、※漢文ではなく、振り仮名付きの読み下し文)を編纂・発行。お坊さんに頼るのではなく、誰もが自分の手で先祖にお経をあげられるようになった。
第二話 霊友会の誕生
世界恐慌の時代、在家主義仏教・霊友会が誕生
昭和4年10月24日、〝暗黒の木曜日″、ニューヨーク株式市場の暴落に始まる世界恐慌が、日本にも暗い影を落とす。
合理化と操業短縮で、その犠牲となる労働者の不満が爆発する。
労働争議は増え続けたが、多くは労働者側の敗北に終わった。
そんな状況の中、法座(つどい)が生まれ、霊友会は発会式を迎える。
苦しみのどん底にいる人たちの気持ちを受け止める。
そこから法座(つどい)が始まった
「誰にでも先祖はあるんだから、平等に導いてお世話しなさい」
という久保角太郎の指導で、小谷安吉(角太郎の実兄)と小谷喜美(安吉の妻)は、貧富や貴賎の区別なく人々を導いていく。
その中には、生きることさえ困難な生活をしている人たちも少なくなかった。
さまざまな悩みや苦しみを抱えた人たちが集まってきて、昭和3年、小谷法座(つどい)が生まれた。
「つどい」は、地位や身分、職業に関係なく、一緒に集まり、ともに語る場である。
参加者それぞれの悩みや苦しみをみなで受け止め、解決してきた場でもある。
参加した人たちは、そこから生きる力を取り戻していった。
そうした活動で会員が増え、昭和5年7月13日、「霊友会発会式」を迎えた。
その時の参加者は、子どもを含め、104人。
名実ともに在家主義仏教・霊友会(※注1)が誕生した。
※注1
「霊友会」という名前は、法華経の研究と並々ならぬ修行の末、久保角太郎が命名した。久保は「あの世に帰れば霊の友である。この世に生きておれば会の友である」、「過去・未来・現在の深い法華経のつながりという姿が『霊』という文字に現れておる。霊友会ということは、ご先祖が集まってくる、ご先祖をお集めすることなんだ」という言葉を遺している。
教えに貧富や男女の差別はない!
久保角太郎の徹底した平等意識
久保角太郎が開いた教えの根幹には、徹底した平等意識があった。
当時の日本はまだ女性に参政権さえなく、「三界に家なし」と言われ、嫁いできた妻方の先祖を一緒に供養することなど考えられない時代だった。
久保が開いた教えによって初めて妻方の先祖も一緒に供養できるようになった。
また、久保は貧富の差や男性女性に関わりなく、平等に「法名」をつけた。
法名について、久保は常々次のように話していた。
「法名というものは、お寺のお坊さんばかりがつけるものではない。
在家から正しい教えを持ち、社会を救う、平和の建設に努力するには、法名ということが一番大切なんだ。人間は死んだら死にっぱなしではない。
必ずまた仏縁あってこの世の中に生まれてくる。
悪い因縁は解決して、良き因縁のつながりによって人づくりをする。
きれいな魂を持って良き人間として生まれてくる」。
「両家の先祖供養」「法名」「青経巻」「たすき」「つどい」など、どれひとつをとっても、当時から霊友会には、貧富や貴賎、男女の差別が入り込む余地はなかった。
霊友会の平等意識は、“先祖から受け継いだもの、人として生きる姿はそれぞれだが、自分が解決すべき因縁(※注1)は、貧富や貴賎、男女の区別はない。お互いに同じだ”という久保角太郎の発想から生まれた。
※注1
仏教で説く「因縁」とは、この世のすべてのものごとは、なにひとつとして、それ自身で存在しているものはなく、すべては何らかのつながりやかかわりあいをもって存在していることを示す言葉。
第三話 恒久の世界平和を伊勢神宮に誓願
時は、まさに内憂外患。
いかにして人類を救うのか!
政党不信、右翼テロ5・15事件で犬飼毅首相が倒れ、軍人内閣、国際連盟脱退、非常時のかけ声の中で、軍靴の足音が高まる。「やがて火の雨が降ってくる。この世に地獄が出現する」と、ことあるごとに危惧していた久保角太郎は、小谷喜美ら幹部会員と昭和7年11月、日蓮聖人が生涯をかけて法華経の広宣流布を誓った伊勢神宮に向かった。
恒久の世界平和を伊勢神宮に誓願。
世界中に法華経を伝えることが、霊友会の使命であり、目標である
その願いは「一天の戒壇を念ず」の言葉に込められている。
一天とは、世界のこと。「一天の戒壇を念ず」と、伊勢神宮で恒久の世界平和を祈願した久保は、「世界中に法華経を伝えることが、霊友会の使命であり、目標である」と説いた。
婦人修養会(のち、国友婦人会)結成。
本格的に「社会事業」を開始
同年、「宗教の本願は社会事業にある」と喝破した久保角太郎は、一切衆生を救うため、小谷喜美を中心に、「婦人修養会」(のち、「国友婦人会」)を組織した。
そして、台湾震災義捐金街頭募金などの本格的な社会事業が始まった。
第四話 人類を救う約束
会員の手弁当の奉仕で完成した「本部講堂」
講堂の場所は、東京市麻布区飯倉二丁目(現・港区麻布台一丁目)に決まった。
宮内省建築技手の経歴をもつ久保角太郎が自ら図面をおこし、建材などの調達も木場まで足を運び自分で行った。
昭和12年夏から工事は急ピッチで進められた。
しかし、決して資金は潤沢でなく、東京周辺から大勢の会員が手弁当で奉仕に駆けつけた。
暑い夏が過ぎ、落ち葉の季節が終わり、小雪が舞い出す冬がきた。
そして師走も押し詰まった12月末、霊友会本部講堂は完成した。
本部講堂竣成式は、12月30日と31日にわたって行われた。
「ここから菩薩が生まれるんだ。ここから菩薩が生まれて世界の平和に貢献するんだ」。
久保角太郎の力強い呼びかけに、集まった会員の目が輝いた。
当時の人々に夢と希望を与えた 「ニッポン号世界一周親善飛行」
昭和14年8月26日、見るからにスマートな双発機が東京・羽田飛行場を飛び立った。
毎日新聞社(当時大阪毎日・東京日日)のニッポン号が、「5大陸、2大洋制覇」の世界一周親善飛行に出発したのである。
日中戦争が勃発して3年目、国内では戦時色が濃厚になっていたときだった。
そのため、この明るいニュースは日本中の国民を沸き立たせた。
当時、霊友会は50万の会員を擁していた。
久保角太郎は、この事業を全会員の念願によって成功させようと発心し、自身で祈願をこめた青経巻を東京日日新聞社に持参して、吉田操縦士に直接手渡した。
また、ニッポン号が前人未到の北太平洋横断コースに突入するときは、本部講堂で会員の有志700人とともにお経をあげ、徹夜の念願をした。
全会員不休の念願は、ニッポン号が無事帰国するまで続いた。
久保角太郎は、ニッポン号帰国後、「霊友会は世界の人類を救う約束がある。世界の平和に貢献する修行をせよ」と説いた。
各地で「講演活動」と「社会事業」を活発に展開
機関紙『大日本霊友会報』が創刊された昭和9年の会員数は7千人。それが、同15年には、76万人に達している。
この頃、全国各地で「在家の菩薩行」を訴える「講演大会」が頻繁に開催された。また、「婦人修養会」を中心とした社会事業も活発に行われている。ニッポン号世界一周親善飛行達成の後援をはじめ、慰問資金の街頭募金活動、歳末救済事業、戦時中の宮城外苑整備事業への勤労奉仕、教育界や貧困者への寄付など多岐にわたる。こうしたさまざまな活動が広がるにつれて、会員数も急増していった。
多くの会員が参加した霊友会の社会事業は、大きな業績をあげた。その記録が残っている。一例をあげると、昭和12年8月6日、東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された記事がある。「8月3日、4日の両日、市内で募集して本社へ委託した献金は、一団体としては近来にない街頭募金の記録的数字を現した。1位、霊友会8551円40銭―」とある。一体、どれほどの規模で募金活動を行ったのだろうか。3日付の同紙には、「霊友会では600余名の婦人会員が襷がけで銀座その他の市内目抜きの場所で街頭募金を行う」とある。
第五話 戦後復興に尽力
戦争は負けたけど、霊界は負けていない。
小谷喜美、国家再建を決意
昭和16年12月8日、米国・ハワイへの真珠湾攻撃で始まった大東亜戦争。
フィリピンに次ぐ硫黄島・沖縄の失陥、本土空襲、広島・長崎への原爆投下。
ポツダム宣言を受諾し、敗戦が決まった。
昭和20年8月15日、戦争が終わった。
焦土の中で、連合国軍総司令部(GHQ)による占領時代が始まった。
終戦直後、大都市は一面焼け野原となり、多くの国民が茫然自失の状態だった。
しかし、小谷喜美は全国各地の会員を訪ね歩き、会員一人ひとりを励ました。
「戦争は負けたけど、霊界は負けていない。しっかり念願して教えを生かしていけば、日本は見違えるように良くなる」
小谷は、平和国家の再建を呼びかけた。
この行動が七面山山頂の世界平和祈念塔「恩師御宝塔」の建立につながっていく。
世界平和祈念塔「恩師御宝塔」建立(山梨県・七面山)
戦争が終わり、久保角太郎の三回忌の年にあたる昭和21年5月、山梨県での身延七面山登山修行を再開。
同年10月、小谷喜美は、世界平和を願い、当地で修行した久保角太郎の大徳を偲び、「恩師御宝塔(世界平和祈念塔)」の建立を発願された。
昭和22年7月に地鎮祭、翌年4月に起工式を行った。
戦後の食糧難と物不足の時代、当時の会員らは七面山修行のたびに、工事に携わる人たちの食糧を持ちより、険しい山道を登った。
世界平和を目指す先人たちの熱い心と献身的な奉仕によって、昭和23年10月18日、恩師御宝塔(世界平和祈念塔)は完成した。
日本を再建するために、社会事業を展開
連合国軍総司令部(GHQ)が矢継ぎ早に打ち出してきた民主化政策、財閥解体、農地開放、憲法改正…。多くの国民は廃墟の中で飢えとインフレとの闘いに明け暮れていた。
やがて朝鮮半島に戦乱が起こる。
そんな状況の中、昭和24年1月19日、戦前から社会奉仕活動を行ってきた「婦人修養会」が名を改め、「国友婦人会」が発足した。
敗戦の痛手を乗り越え、日本を再建するために、霊友会は目覚ましい勢いで社会事業を展開していく。
国友婦人会として最初に行った活動は、戦没者の遺骨を渡したくても遺族の所在が分からない千八百五柱の「住所不明遺家族調査」である。
東京都民生局の依頼で実施し、千二百八十九柱の遺家族を探しあてた。
驚くべき成果に東京都から表彰を受けている。
さらに、皇居日比谷濠へ緋鯉真鯉1万尾の放流(昭和24年)、市ヶ谷から飯田橋間の外濠公園に桜の苗木2千本の植樹(昭和24年)、皇居内清掃(昭和27年)、戦災孤児・貧困者救済のための各都道府県への寄付など、その内容は多岐にわたる。
特筆すべきは、全国各地の福祉施設での奉仕活動である。
洗濯、掃除、裁縫、草むしりなど、全国各地の福祉施設での奉仕活動は、日本社会福祉の芽生えの時に影響を及ぼし、現在も社会福祉関係者から高い評価を受けている。
第六話 霊友会青年部の発足
「欧米では子どもが小さい頃から社会奉仕の精神を教えている」
「国友婦人会」の活動が認められ、昭和28年、小谷は日本赤十字社の要請で、親善大使として欧米各国を歴訪した。
英国赤十字社のバーク顧問と会談した小谷は、このように語った。
「人は困ったときに、お互いに心から助け合う気持ちが大切だ。
広く社会に同情の思いを向けなければいけない、と言うバーク顧問の話に、私は心を打たれました。
欧米では、子どもたちにも小さい頃から社会奉仕の精神を教え育んでいる。
今の我が国との違いはここにある。
日本人には社会への眼差しや思いやりが欠けている。
しかし、法華経の大乗の精神に目覚め、菩提心をもって社会に大きく目を開けば、必ずや社会奉仕の精神は生かされる」
帰国後、小谷は「次代を担う青少年の育成こそ、霊友会が国家社会に果たすべき大きな役割である」と言明。
昭和29年、「霊友会青年部」を発足させ、以降、青少年育成に全力をあげる。
青少年の心身を蝕むヒロポン(覚せい剤)を撲滅しよう!
「霊友会青年部」発足後、すぐに取り組んだのが、「ヒロポン撲滅運動」。
昭和25年の朝鮮戦争勃発により、日本の経済は急速に発展。
その一方で、「ヒロポン」という覚せい剤が若者たちの間に広まった。
霊友会は、文部省選定・ヒロポン撲滅キャンペーン映画「悪魔の罠」を制作。
“青少年の心身を蝕むヒロポンを撲滅しよう”と、全国各地の青年部が自分たちの手で、学校の体育館や校庭に銀幕を張り、昭和30年から31年にかけて、連日のごとく「悪魔の罠」を上映。
こうした活動に対して、当時の川崎秀二・厚生大臣など、多くの団体や有識者から感謝状をいただいている。
日本には国際会議を開ける場所もなかった
終戦から13年がたっても国の財政はまだ厳しく、首都東京には、国際会議を開ける施設すら満足になかった。
そんな中、第9回国際社会事業会議を東京で開催することが決定。
戦後、いち早く社会福祉の活動を起こしていた霊友会に、厚生省(現・厚生労働省)から協力要請の話がきた。
小谷は、次のような考えから快諾した。
「恩師久保角太郎先生は、『この世に命のある限り社会のためになる仕事をしたい』という念願のもとに、先祖供養の教えを遺されて、昭和19年11月18日に霊界に帰られました。(中略)
13回忌を迎えるにあたり、霊友会の久保恩師というお方を世の中に知っていただくためには、やはり大きな社会事業をして、世の中の人々に見ていただかなければならない。
そこでいろいろと相談した結果、この久保記念講堂を造ることになりました」
昭和33年10月、東京都港区虎ノ門に「久保記念講堂」が完成し、社会福祉法人社会事業会館に寄贈した。
同年11月30日から12月6日、「第9回国際社会事業会議」が久保記念講堂で開催された。
敗戦後、日本で初めての国際会議となった。
世界42カ国および国際団体から1,500余人が参加。
日本で、何百世帯といわれた戦争母子家庭の問題についても討議された。
(公式会議議事録発行・財団法人第九回国際社会事業会議運営会/昭和34年)
第七話 青年の修練道場「弥勒山」建立
青少年の育成こそ、世界平和に貢献する道
昭和31年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と謳われ、高度経済成長に入った昭和30年代。
神武景気、岩戸景気に沸く高度成長の道を突っ走る。
三種の神器(テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)で生活が一変した。
しかし昭和34・35年、“60年安保闘争”が日本を揺さぶる。
昭和30年、国の将来を憂えていた小谷は、「青少年の育成こそ世界平和に貢献する道である」との信念から、青年の修練道場・弥勒山建立(静岡県・東伊豆町)を決意する。
乱れた世の中を救うには、 行法経を身をもって修行するのが今、“時”なんだ!
昭和7年11月に伊勢の大廟(伊勢神宮)で「一天の戒壇を念ず」と、世界平和の一大誓願をたてた久保角太郎との約束を果たすため、昭和39年、小谷は青年の修練道場として「昭和の戒壇・弥勒山」を建立。
※戒壇とは、お釈迦さまの教えを生活に生かしていくことを誓う場所のこと。
「乱れた世の中を救うには、行法経(法華三部経の一つ、仏説観普賢菩薩行法経)を身をもって修行するのが今、〝時〟なんだ」と、久保から指導された小谷は、戦前から行法経の修行を積み重ね、長年の念願により、弥勒菩薩をご本尊とする弥勒山を建立した。
「在家の菩薩行」の実践を説く行法経の中で、「菩薩の法」を授けてくださるのが弥勒菩薩だ。
小谷は、会員が在家の修行者として教えを生活に生かしていくことを誓う場に弥勒菩薩をお祀りした。
そして、どこに向かっていけばよいのか分からない青年たちに、はっきりと歩むべき道を示し、指導した。
「弥勒山」は平成26年に建立から50年を迎える。
教えを生活に生かし、国家・社会に役立つ人間になることを弥勒菩薩に誓うため、これまでに何百万人という青年が弥勒山で修行し、今日に至っている。
中高一貫教育の学校法人「明法学院」設立
次代を担う青少年の育成にかける小谷の思いは、弥勒山建立だけにとどまらなかった。
「理想的学校教育の場を実現して、社会に奉仕したい」という願いのもと、社会事業の一環として、昭和38年、学校法人明法学院を設立。翌年4月「明法中学校・明法高等学校」を開校。
同学院について、小谷はこう述べている。
「今は分からねども、或いは5年経ち10年経ち、或いは私が死んだ後にも、『あの時に明法学院があったんだから、こういうふうに社会のために働いてる』と、こういう人がだんだん数珠つながりによって必ず現れて来ることを、私は信じて疑わないものでございます」
「この世に生を受けたことに感謝し、知性を磨き、よい習慣を身につけ、社会のため、国家のため、人類のために役立ち、世界平和に貢献できる人間を育成する」
この建学の精神のもと、これまで多くの卒業生を送り出し、現在も大勢の青少年が同校で学んでいる。
第八話「佛の世界実現」をめざして
人頼みでなく、みなが目覚めよ
これからの三十何年の世の中は、いかなる変化があるかということを、われわれは深く考えなければならない。
永遠の世界平和の建設に、ますます霊界の功徳をいただき、先祖の供養をしてお互いが良き家庭をつくり、良き世の中を作っていくためには、人頼みではならない。
みな目覚めて自分が合掌していくということがこれが法華経の本願である。
これが法華経の修行なんであります」
小谷喜美、最後の説法である
(昭和46年2月3日・旧本部講堂)